トランネット会員の翻訳ストーリー
ラッカ珠美(第678回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
私が最初に「書籍翻訳者になりたい」と思い立ったのは、もう25年前のことです。まずは勉強、と米国大学院で通訳・翻訳の学位を取ったのですが、卒業後は実務翻訳者として米国で生計を立てるので精一杯、書籍翻訳の夢に取り組む余裕がないま月日が過ぎてしまいました。
やがて結婚や子育てといったライフイベントの諸々もやっと落ち着き、今年こそ! 書籍翻訳を真剣に目指そう! とトランネット会員登録したのが昨年の1月。そこからオーディションに応募してはほとんど第一選考にすら引っかからず終わる、というのを5、6回繰り返しました。
今振り返ると、この時の私はオーディションを英文解釈の添削のように捉えてしまっていたと思います。25年の翻訳者としての実績があるのだから、訳の正確さには問題ないはずなのに、おかしいなぁ……などと、大きな勘違いをしていました。
あまりにも低成績が続くので、あるとき発想を変えて、書店で本を手に取る読者の視点から、自分の訳文を見直してみることにしました。最初の一文を読んで思わず引き込まれるような、わかりやすくて魅力的な文章になっているかどうか……その結果、これでは全然ダメだ、とやっと気づきました。ただ訳が正確なだけではなくて、いつか書店に並ぶ商品として通用する文章でなければ、出版社様の目にも留まるはずがない。そう思い至ってから挑戦した次のオーディションで、幸運なことに選出していただき、そのときの訳文は本当に本となって書店に並ぶことになったのでした。もちろん、選出してくださった方が求めていた文体とちょうど合っていたという幸運もあったと思います。
いずれにしても、本を一冊丸ごと訳すというのは、実務翻訳の仕事とは比べ物にならないくらい大変で、でも楽しくて、学ぶことの多い経験でした。トランネットの皆様のサポートなしにはとても完走できなかったと思います。本当にありがとうございました。
鶴見紀子
翻訳ストーリー
始まりは、昨年の春の誌上翻訳コンテストへの応募でした。
英語塾で教える仕事は楽しく日々充実していましたが、子育てに大きな一区切りがつき、何か新しいことにチャレンジしようと思ったのです。開催されていたオーディションの課題が学生時代の思い出につながる内容で、背中を押されました。
思いがけず最優秀賞に選ばれて夢のようでした。秋になり、トランネットから副賞のトライアルの案内をいただいた時、初めて仕事としての翻訳を意識してどきりとしました。
課題の本は、著者が手探りでストア哲学を学び、実践した経験を親しみやすく語るものでした。この生きづらい世の中で、どうやって自分の心を穏やかに保ち、試練の時に立ち向かえばいいのか、大昔の賢人の知恵に学ぼうというのです。
当時の私は、義母が要介護となり2カ月ほど経ったところでした。生と死、変化を受け入れること、自分の芯を保ち、穏やかでいるにはどうしたらいいか等々、日々考えさせられることが多く、不思議な巡り合わせを感じました。
正式に決まりスタートした翻訳作業は、まさに頂上の見えない山登りのようで、今は何合目かしらと思いながら必死に取り組みました。あちこちに出てくるストア派の賢人たちの味わい深い言葉に支えられました。コーディネーターの方からの温かいメールも本当に有難かったです。
無事出版された今、黄色い表紙に小鳥と石像を組み合わせた本を書店で見かけるたびにしみじみ嬉しく、勇気と元気をもらえる気がします。丸ごと1冊訳すという経験も、一生役に立ちそうなストア哲学の考え方(コントロールテストは万人におすすめです!)に出会えたことも、人生の大きな収穫でした。
今後も新たな本との出会いを楽しみに、こつこつ精進を重ねていきます。地元の児童館での読み聞かせボランティア活動に参加しているので、いつか素敵な絵本を翻訳して紹介できたらいいなあと思っています。
松倉真理
翻訳ストーリー
私は翻訳者としては遅咲きの方で、この仕事を志したのは30歳を過ぎた頃でした。本好きが高じて文章を書く仕事に憧れ、広告業界でコピーライター業にいそしんでいた20代。転機はラテンアメリカの音楽や文学にのめり込み、30歳を前に会社を辞めて中南米に1年滞在してスペイン語を学ぶ、という個人的には一世一代の冒険に出た後でした。仕事でもスペイン語に関わりたい、と煩悶した末に出た結論が「翻訳」だったのです。そして通信で翻訳を学び始め、個人的なご縁でスペイン語の歌詞翻訳を手がける幸運にも恵まれましたが、出版翻訳は遥か遠くの地平で輝く憧れの分野。ネット検索でトランネットを知ったものの、会員登録の勇気が出ずにウィンドウをそっと閉じたのもこの頃です。
その後は結婚・出産を経て独学を続け、満を持して(?)登録したトランネットで挑んだ2回目のオーディションで訳者選出のお知らせをいただけたのは、まさに天恵でした。原書を宅配便で受け取った時のずっしりとした重みは、今も忘れられません。ああ、この本を自分が丸々1冊訳すのだ、という興奮と不安と喜びは、今も翻訳者としての初心の感覚として刻まれています。その後は共訳を含めて3冊を訳すご縁をいただき、今は映像翻訳で字幕や吹き替えの仕事にも挑戦中です。
育児をしながらの学習期間中は、私が本当に翻訳者になれるのか? と何度も自信を失いそうになりました。ですが今思うのは「いつか時が来る」ということ。本当に目指したい道ならば、覚悟をもって進んでみるしかない。いつか時が来る。そう信じて「その時」に備え、爪を研ぎ続けるしかないのでしょう。能ある鷹にはなれなくても、手持ちの爪を研ぎ続けることはできるのですから。いずれはスペイン語の本を訳したいという夢もありますが、これは自分から売り込む他なさそうです。本を片手に、私の爪研ぎはまだまだ続きます。
深町あおい
翻訳ストーリー
朝6時前、玄関から外へ飛び出したとたんに走り出す。冷気が全身を刺してくる。温度計はマイナスを指していた。着ているのはシャツ2枚だけ。でも最初の5分を耐えれば温まってくるから。朝もやのかかる山あいの県道を、川沿いに上流へ向かって駆け上る。昨晩の雨で川の流れが激しい。いつもの場所でゴルフのスイングをしているやっちゃんに手を挙げてあいさつ。集落を一周して5、6キロ、30分後には帰ってくる。
6年前、南アルプスの麓の小さな町に東京から移住して、約2年間暮らした。当時小学3年生だった双子を連れての「親子山村留学」(夫は東京で留守番)。全校生徒20人の小学校に子どもを通わせ、畑仕事以外に励んだのがランニングと、このとき始めた翻訳の勉強だ。周囲に人家は少なく、川の音が心地よいBGMだった。
訳文を考えること自体が面白くて帰京後も勉強を続けたが、「訳書を出す」という夢にはなかなか近づけなかった。転機は3年前、お世話になった先生の下訳を引き受けた。本になると思ったときに、「読者」の存在を強く意識した。それまでは、訳例と自分の訳文を照らし合わせ、答え合わせをするような勉強をしていた。原文と自分の訳ばかりを見ていたのが、第三者の視点で考えられるようになった。
昨年、トランネット経由も含め、ついに2冊を出版できた。やはり昨年からいただいているニュースサイトの記事や雑誌のインタビュー記事の翻訳も、前職(新聞記者)の経験が役立ち、とても楽しい。
翻訳は、自分の癖を修正しつつ地道に量を積めば、確実に上達する点がランニングに似ている。
仕事に行き詰まったときは、走りに出かける。リズムよく地面を蹴るうちに、大丈夫だという謎の自信がわいてくる。昨冬は30年ぶりにフルマラソンに挑戦して、3時間30分を切れた。走ることは自分のアイデンティティーだ。翻訳することも……といつか迷いなく言えるよう、愚直に続けていきたい。
前田真砂子
翻訳ストーリー
幼い頃、母は私を自転車に乗せ、毎週のように図書館に連れていってくれました。おかげで私は空想の世界に遊ぶのが大好きな子どもになりました。大人になり、『ハリー・ポッターと賢者の石』に夢中になりました。あまりの面白さに、「私もこんな物語を届けられる翻訳者になりたいです!」と読者カードに書いて送ったところ、なんと訳者の松岡佑子さんから、「がんばってください」とお返事が届きました。
それから10年の紆余曲折を経て、フリーの実務翻訳者になりました。仕事は面白く充実した毎日でしたが、目の前の仕事に打ち込むうちに40代も半ばに。めっきり疲れやすくなり、のんびりしてる場合じゃない「やらなくちゃ」とようやく覚悟を決めたのです。よし、読書好きの母が元気なうちに、私が訳した本をプレゼントするぞと。
真剣勝負で挑んだ最初のオーディションと次のオーディションで、思いがけず一次選抜を通過。一気に夢が現実の目標になりました。その後、ビジネス誌とニュースサイトの記事翻訳をご依頼いただき、翻訳者として初めて自分の名前がクレジットされました。そして数冊のリーディングを通して原書を読み込む作業にも慣れた頃に、ビジネス書のトライアルのお誘いが。翻訳者に決まったことを知ったときは、身が引き締まる思いでした。担当させていただいたビジネス誌、ニュースサイト、ビジネス書の翻訳は、いずれも中国で進む最先端のデジタル化に関連するもの。よい流れでお仕事の機会をいただきました。「翻訳者になりたいです!」と読者カードで宣言してから20年以上、空想ではなく現実世界の物語ではありますが、母に訳書を贈ることができました(当の母の反応はあっさりしたものでしたが。80代にデジタル革命は響かなかったようです……)。出版翻訳への道筋をつけてくださったトランネットには感謝しかありません。ここまでありがとうございました!
佐々木寛子
翻訳ストーリー
翻訳の仕事にはコネも大事だとは聞くけれど、出版社勤務時代、上司や先輩から「謎の知り合い」を押し付けられて編集者が苦労する姿はたびたび見てきた。勢いや可愛げのある若手なら育て甲斐もあるだろうが、残念ながら私はそういうタイプでもない。
そこで、卑屈なのか傲慢なのか、まずは正攻法でやってみよう、という自分にとってオーディション制度はありがたかった。初回は箸にも棒にもかからなかったが、2回目でA評価をいただいた。課題の本は別の方が担当することになり、評価を励みに頑張ろうと考えていたところ、トライアルへのお誘いを受け、『マネジャーの全仕事』の翻訳が決まった。
そういえば、管理職になりたての頃、焦って本書と似たようなタイトルの本をいくつも買い込んだのを思い出した。いま読み返すことはないけれど、当時の自分には切実に必要で、とても実用的な読書だった。この本にもきっと、やる気とプレッシャーで眠れずガチガチの肩こりを抱えた読者がいるのだろう。そんな読者を不必要に疲れさせないよう、読みやすい訳文を心がけた。実用書には実用書の使命があり、私はその潔さが好きだし、わりと向いていると思う。
一転して2冊目の訳書は「生産性なんかクソくらえ」という、逆方向に切実なメッセージである。
同じ作家がこの2冊を出したら信用できないが、翻訳者は「その視点もあるわな」と関われる、得な立場だ(ちなみに差別煽動的な本の翻訳依頼はあれこれうるさく言ったら立ち消えになりました。駆け出しだからって差別主義者の靴は舐めないよ)。わからないけどわかりたい、と学生時代にうんうん唸りながら読んだハルバースタムの文章と再会できたのも嬉しかった。
私にとって翻訳はとても責任の重い読書だ。しっかり読んで、ちゃんと読者に届けたいと思う。
売れる本を作りたい、という欲もある。読者や関係者の信頼を得られるよう、自分なりに精進していきたい。
弘瀬友稀(第645回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
翻訳の仕事に憧れを抱いたもともとのきっかけは、13歳のときにあるロックバンドに出会ったことでした。あっという間に彼らの音楽に魅了され、感化された私は、ロックと英語の勉強にどハマり(!)していきました。そうして国内外のロックバンドを聴き漁るうちに、歌詞の翻訳という仕事があることを知り、将来の夢として掲げるようになりました。
高校も大学も英語を専門に学びましたが、英語ではなく「翻訳」の勉強を始めたのは、新卒1年目の頃でした。それから独学で1年、翻訳学校で1年勉強したのち、翻訳学校で知り合った仲間たちとともに、有志の勉強会を開くようになりました。
トランネットのトライアルに参加しはじめたのも、その仲間たちが背中を押してくれたおかげです。当時の私は「どうすれば、どれくらい実力がつけば、翻訳の仕事ができるのか」と悩んでいましたが、彼らが「実力は十分だと思う。まずはいっぱいトライアルを出してみて、名前を覚えてもらって、この人はこんな翻訳をするんだなと知ってもらうのがいいんじゃないか」と助言をくれたのです。
そんなこんなで応募しはじめたトライアル。まさか3回目の挑戦で書籍を訳せることになるとは、夢にも思っていませんでした。ありがたいことに、その翌年にもお話をいただき、これまで計2冊のビジネス書を翻訳させていただきました。実際に書籍を翻訳してみて思ったのは、「まだまだ実力不足だな」ということです。たくさんの助言やサポートをしてくださったコーディネーターの方には、感謝してもしきれません。
現在は会社員として務める傍ら、もともとの夢であった歌詞対訳を含め、音楽関連の翻訳などもさせていただいています。今後は(いつになるか分かりませんが)、もっともっと実力を磨き、これまでとはまったくジャンルの違う、小説やエッセイなどの翻訳にも挑戦してみたいです。
沢田陽子(第672回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
大学を卒業後、外資系企業勤務を経て実務翻訳者として仕事をするようになって20年が過ぎました。その間にコロナ禍という大変な状況に見舞われ、やりたいことを先延ばししてはいけないと挑戦したのが出版翻訳でした。それまで実務翻訳者として仕事をしてきたとはいえ、出版翻訳は私にとって未知の世界。とても太刀打ちできないのではないかと思いましたが、やらずに諦めるわけにはいかないと、挑んでみることにしたのです。
オーディションに応募する際には、実務翻訳同様に丁寧にリサーチを行い、事実を確認しましたが、それに加えて読者の皆さまに楽しんでいただけるようにということを意識しました。それが奏功したわけではないとは思いますが、訳者に選定していただき、そのご連絡をいただいたときは、ただただ驚くばかりでした。実際の翻訳作業では担当の方から貴重なアドバイスを頂戴し、新たな気づきを得ることができました。無事に出版された本を初めて手にし、自分の名前を目にしたときには、これまで経験したことのない達成感を覚えましたが、家族や友人に喜んでもらえたことは望外の喜びでした。
こうして夢が1つ叶いましたが、ようやく出版翻訳という世界の入り口に立ったにすぎません。いつかはイギリス関連の書籍を翻訳してみたいという夢もできました。40代でイギリスの大学院に留学した際、大変な人気を博し、後に映画化もされたドラマ『ダウントン・アビー』の世界にすっかりハマってしまい、当時の階級社会に興味を惹かれました。20世紀初頭の貴族と使用人の暮らしぶりが丁寧に描かれ、撮影が行われていたコッツウォルズの村まで足を延ばしたほどです。また、子どもがイギリスで中等教育を受けたことから、日本とは全く異なる教育制度にも関心を持つようになりました。こうした自身の経験を踏まえ、イギリスの文化や教育に関する本を訳すという夢を実現できたらと思っています。私の翻訳修行はこれからも続きます。
呉亜矢 名義(第669回オーディション入賞者) 鹿田真梨子 名義(第84回Job Shop入賞者)
翻訳ストーリー
もともと本好きだったのもありますが、書籍翻訳の世界に飛び込んだ直接のきっかけは「特許明細書」です。TOEIC600点ぐらいの英語力だったあの頃、特許事務所の上司(英検1級所持の弁理士)の下で働いていました。日本企業の米国特許出願「半導体の製造方法」などの日英翻訳や、アメリカやフランスの会社が日本特許庁に出願する明細書の和訳に必死で取り組むうちに英語力(と時々フランス語力)がついてきました。物の構造や製造プロセスを説明するなら英語のほうが圧倒的にわかりやすいんです。たとえば「外側に広がった形状」はflaredの一語で済みます。同じことを表現するのにこんなに違うのかと言葉の面白さにはまっていきました。しかし仕事で扱う言葉は製造業関連のみ。semiconductor云々よりもっと面白い文章を訳してみたいと思うようになりました。トランネットをwebで見つけて入会してから10年以上、ダメ元で応募したJob Shopとオーディションは数知れず。これまで二回翻訳者に選定していただきました。夢は印税で暮らせる翻訳者になること。とはいえ道は遠く、大学で非常勤講師もしています。
特許事務所を辞めてからプロの翻訳家が来られる勉強会に入りました。時間帯が平日夜に変わって行けなくなりましたが、文章を書くときいつも頭に浮かぶのは当時先生が翻訳中だったSFの巨匠スティーブン・キングの『On writing』の一節です。「文をゴテゴテ飾り立てる形容詞や副詞の類は全部取りなさい。」S.キングによれば伝えたいことを端的に書くのが極意であると。実践するのは容易ではありませんが座右の銘としています。
最近の気晴らしはUNEXTで中国の壮大な歴史ドラマを見る、テイラー・スウィフトのLast Christmasの完コピに励む、朝日新聞beのナンプレを解く、アニソンに合わせて娘と踊る(超きつい)などです。書き手としての修行は一生続きます。辛いこともありますが、魅力的な書き手や心揺さぶられる物語と出会うのを楽しみに歩んでいければと思います。
権田敦司(第670回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
突然ですが、みなさん「ざっくり翻訳」ってご存知ですか? 通称「ざく翻」。もしかしたら「あ、知ってる、知ってる!」って今、ニヤニヤした人もいるかもしれないですね。はい、某FM局の人気昼番組のワンコーナーです。パーソナリティはシンガーソングライターのLOVEさん。彼女が、歌詞の内容を知ってそうで知らない洋楽のヒットナンバーを、日本語にざっくり翻訳して、楽曲に合わせて歌っちゃおう、というなんとも面白い、そして翻訳者にとっては大変タメになる?コーナーなんです。
たとえば、先月来日した大御所ビリー・ジョエルの「Honesty」であれば、こんな感じ(ご存知の方はメロディーを思い浮かべながら、どうぞ)。
♪Honesty, such a lonely word~ Everyone is so untrue~♪しょ~じきぃ~ めっちゃ、む~なしぃ~ み、ん、な、うっそぉ~ つっきぃ~ ン、チャッ、チャッ、チャッ・・・
あのメロウな名曲が、いかにも心に傷もつ、騙されたぁ~人間の愚痴披露曲に大変身。そう、美しいサビのメロディーに、一気に大衆酒場の哀愁感がまとわりついてくるから、翻訳って不思議ですよね!?
ちなみに、私が「Honesty」を初めて聴いたのは今から約30年前、中学生のとき。音源はカセットでした(ご存知ない方はグーグルを、どうぞ)。当時のラジオいわく、「Honesty」は日本ではヒットしたけれど、本国アメリカではさほど売れなかったとのこと。アメリカ人には、歌詞がまさに「ざく翻」のようにきこえたからかもしれません。
まぁ、真偽のほどはさておき、翻訳に不思議な力があるのは確かかも……。LOVEさんは言います、言葉は心意気!
もし翻訳で煮詰まっている方がいらしたとしたら、ぜひ気分転換にラジオをつけてみてくださいね。
以上、オーディション戦績ざっくり1勝9敗の権田がお届けしました~♪
川崎千歳(第661回オーディション入賞者)(※「崎」はつくりの上部にある「大」が「立」になっている「たつさき」が正式表記です)
翻訳ストーリー
消去法による選択ではありましたが、英語学科に進んだときは翻訳家へのぼんやりとした憧れがあったような気がします。とはいえ特に翻訳の勉強をするでもなく、大学卒業後は外資系コンピューターメーカーに就職しました。翻訳を仕事にしたいと改めて思ったのは、業務の一環で技術文書を訳したときです。その後、リストラが始まったのを機に翻訳者への転身を決意。本や雑誌などを活用して翻訳スキルを習得し、半年ほどでIT分野の実務翻訳者として歩き出せました。仕事が軌道に乗り、出版翻訳にも挑戦したいと思うようになったところで、前々から気になっていたトランネットに入会しました。しかしながら、最初の2年ほどは第一選抜通過すら望めない程度の訳文しかつくれず、オーディションには応募できずじまいでした。
リーディングを6~7冊こなし、たまにオーディションで最終選考に残れるようになった頃、初めての訳書となる『PUBLIC DIGITAL』のお話をいただき、トライアルを経て訳者に選出されました。通知を受け取ったときは夢心地でしたが、すぐに不安が襲ってきました。私にできるのだろうか。案の定、訳稿の提出はたびたび遅れ、スケジュールも何度か見直していただくことに。関係者の方々にはご迷惑をおかけしました。それでもなんとか訳し終え、数カ月後に書籍が手許に届いたときは感激しました。
オーディションを通じて翻訳の機会をいただいた『「変化を嫌う人」を動かす』でも、訳稿提出が遅れがちな傾向は変わらず、英文読解力、調査力、日本語の文章力など、翻訳に必要な各種能力の不足を痛感しました。私にとっては最初や2冊目の訳書であっても、読んでくださる方々には関係ありません。訳者のせいで原書の評価が下がるような事態は許されず、責任の重さも実感しました。
翻訳を通じて海外の知見を伝える役目を果たし続けられるよう、これからも翻訳力の強化に取り組んでいくつもりです。
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