トランネット会員の翻訳ストーリー
黒田幸宏(中国語翻訳者)
翻訳ストーリー
この度、『中国の伝統色 故宮の至宝から読み解く色彩の美』で、中国語の出版翻訳家としてデビューすることができました。トランネット社の皆さまに感謝申し上げます。無事に出版の運びとなったよろこびは、なにものにも代えがたいものでした。
“出版翻訳家として活躍したい”、これがフリーランスになった目的です。深掘りすると“自分の文章を人に読んでもらいたい”、との気持ちであると気づきました。出版翻訳の広くはない門を目指し、「語学力」「翻訳力」はもちろん、「日本語の文章力」のスキルアップに努めた甲斐がありました。翻訳全般に言えることですが、スキルが数値化できないなか、“必ず努力は報われる”と信じてきました。その成果が現れたと、たいへんよろこんでおります。
よい文章とは、“初見でだれでも分かる文章”である。これを「座右の銘」にしています。より簡潔に、より分かりやすく。表現を常に工夫したその成果が、本書でも表現できていれば幸いです。
クレジットに名前は出ていませんが、過去に文芸作品の日本語訳や、ボランティアで日本の短編小説の中国語訳など、多数の出版翻訳を経験しました。これらの経験も、本書で活かせたと自負しています。今後も本作を土台に、1冊でも多く出版翻訳を続けていこうと思います。
出版翻訳に携わりながら、新たに大きなふたつの目標ができました。ひとつは「英語の出版翻訳家」を目指すで、もうひとつが「文筆活動」です。
翻訳文章に限らず、“なんらかの文筆活動でも活躍したい”との思いが沸き起こりました。ブログに文章を書き、それに英語訳と中国語訳を加えるなど、日々、「日本語の文章力」や「翻訳力」を磨いています。
新たな目標まで遠い道のりになるかもしれませんが、その成果をメインである中国語の出版翻訳にフィードバックし、末永く翻訳業界で活躍するとともに、新たな目標でも活躍できるよう、精進していきたいと思います。
陰山有加(第178回中国語Job Shop入賞者)
翻訳ストーリー
初めて中国を訪れたのは大学3年の春休み。中国語は出発前に挨拶や簡単なフレーズを覚えた程度でした。北方の荒野と地平線も、乾いた冷たい空気も、上海の人混みも、すべてが新鮮で、何より人々のパワーに圧倒され、再訪を心に誓って帰国。すぐに同じ大学の中国人留学生から中国語を習い始めました。
当時の私は美大で工芸デザインを専攻し、制作に追われる日々を過ごしていました。美術の道に憧れ上京したものの、要領の悪さから課題についていけず、心の中は焦りと不安だらけ。そんな中で出会った中国語は、中学高校で習った英語よりも、好きで志したはずの美術よりも、楽しく興味深いものでした。就職氷河期の真っただ中で就活が全滅し、何も決まらず社会に放り出された私は、バイトをしながら中国語の独学を続け、再び中国の土を踏むことに。紆余曲折を経て中国の日系幼稚園に就職し、結婚を機に台湾系翻訳会社に転職、子供が生まれ、本帰国したあとフリーランス翻訳者となり、今に至ります。
いつの間にか、美術を離れて中国語翻訳を生業にするようになり、20年近くが経ちました。失敗と寄り道ばかりしてきましたが、今思えば私にとって、翻訳は縁あってたどり着いた天職なのかもしれません。
育児の終わりが見え、忍び寄る年波を感じる今日この頃、いつまで元気で仕事を続けられるのか、自分がどんな翻訳に携わりたいのか考えていたところ、Job Shopに応募する機会があり、幸運にも採用していただきました。香港出身のイラストレーターさんの漫画でしたが、作者インタビューの部分に共感することが多く、美術に関わった経験と今の仕事をようやく繋げられた気がしました。
そういえば、翻訳は絵を描くことに似ているという説があるのですが、私も時々、作業中の自分と、画用紙に向かってデッサンをしていた頃の自分が重なります。いつか美術関係の訳書を出すという目標を胸に、今後も翻訳の仕事を楽しみながら続けていきたいと思っています。
沢井メグ(中国語翻訳者)
翻訳ストーリー
私が中国語を学びはじめたのは大学生のときです。幸運にも最初の職場で翻訳に携わることができ、上海万博での勤務を挟んで、勤めたウェブメディアでは中国や台湾のニュースの紹介や現地取材を行いました。2020年に独立し、ライターの仕事と並行して、ニュースや中国ドラマの資料、漫画、絵本などの翻訳をしています。
翻訳者に求められる力は何か。翻訳者にとって永遠のテーマですが、私がこれを考えるときヒントになったのはクライアント様の言葉です。「中国語が上手な人はたくさんいるが、現地の文化や歴史の下地があって、かつ日本の読者の感覚をわかっている人となるとあまりいない。だからあなたにお願いしたい」過分な言葉に恐縮しながら、やはり翻訳は単なる言葉の置き換えでは済まない仕事だと感じたのでした。
そこで思い出したのが魯迅の『故郷』の翻訳です。作中には昔「豆腐屋小町」と呼ばれていた女性が登場します。「昔は評判の美人だったんだな」とわかる表現ですが、原文では「小町」ではなく「西施」。中国で誰もが知っている美女の名です。それが「小町」となったのは翻訳をした竹内好先生が、当時の日本の読者にわかり良くかつ文学的な雰囲気を残そうとしたのだろう、そう想像できるでしょう。(ちなみに『故郷』の別の訳本には「豆腐西施」や「豆腐美人」という訳もあります。それぞれの評価やメリットデメリットについての議論は尽きません)
豆腐屋小町は「原文の味わい」と「日本の読者に伝わりやすい表現」の間ですり合わせが行われた一例だと言えます。私も翻訳ではこの点を重視しており、この度、担当した『半導体ビジネスの覇者』でも校正のたびに「原文が内包する台湾の文化背景」と「想定読者層に伝わりやすい表現」の間を何往復もし、コーディネーター様や担当編集者様と相談・検討を重ねました。
とはいえ、いち翻訳者が外国文化全てを理解し尽くすのは難しいことです。ですがここは鋭い感性、探究心、そしてリサーチ力があればカバーできます。まず「この訳で著者の意図が伝わるか?」と疑問をぶつけ、探究心をもって徹底的にリサーチする。現状、私はこれが言語能力以外で翻訳者に求められる力ではないかと考えています。
翻訳コンテンツは、手元で世界を感じられる素敵なコンテンツです。今後も読者に「楽しい」「面白い」など何か心に刺さる翻訳を届けられるよう研鑽を積んでいきたいと思います。
湊麻里
翻訳ストーリー
翻訳スクールに通い始めたころ、「自分なりの翻訳観を早く見つけてください」と言われたことがあります。「自分なりの翻訳観」とは何だろう? 訳書を出せるようになった今でも、その答えははっきりとはわかりません。
翻訳者としての自分の人生を振り返ると、思い出すのは失敗と挫折ばかりです。直訳すぎる、または意訳すぎると指摘されることはしょっちゅうで、コンテストに応募しては落とされる日々。ならば、どんな英語も上手に訳せる魔法のルールや法則はないかと、必死に研究を重ねた時期もあります。もちろん、そんなものは見つからなかったのですが……。
いったい何が正解なのかと悩んでいたとき、恩師である夏目大先生が、こんなアドバイスをくださいました。原文は野生動物のようなもので、その振る舞いを予測することはできない。だからこそ、新しい文と出会うたびに、きちんと向き合って考えるべきなのだ、と。
以来、翻訳をするときには、このアドバイスを自分の指針としています。ルールや法則にとらわれず、その都度ベストな訳を考える。それは、すべての人を満足させる「正解」を見つけることよりも、ずっと大切な心がけなのではないでしょうか。
言うまでもなく、新しい原文と出会うためには、新しい翻訳案件に出会わなければなりません。トランネットを通じて、『自分を解き放つセルフ・コンパッション』と『Small Homes』の2冊を担当させていただけたことは、私にとって大変貴重な経験になりました。特に、訳文を丁寧にチェックし、適切なコメントと温かい励ましをくださったコーディネーターの皆さまには、心からお礼を申し上げます。
早いもので、翻訳の仕事を始めてから、今年で6年目を迎えました。毎日のように弱音を吐きながら、それでも続けているのですから、意外とこの仕事は天職なのかもしれません。興味のある哲学関連書や音楽関連書の翻訳にもいつか携われるよう、今後も努力を重ねていきたいと思います。
高瀬みどり(第663回オーディション入賞者)(※「高」は「はしごだか」、「瀬」は部首の「いちのかい」 上部が「刀」になっている漢字が正しい表記)
翻訳ストーリー
両親の仕事の都合で高校までアメリカと日本を行ったり来たりしていたので、物心つく前から英語は私のアイデンティティーを形成するものの1つでした。私にとって英語は未来を切り開くための一番の武器であり、自分の幸運な境遇と、それを全力でサポートしてくれた両親に感謝しない日はありません。
昔から「表現する」ことに強いこだわりがあったように思います。「文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ」という、村上春樹の『風の歌を聴け(講談社文庫)』に登場する言葉が、ずっと心に引っかかっていました。この言葉が、自分の中に漠然とあった「表現者でありたい」という気持ちをはっきりと言語化し、自覚させてくれました。しばらく役者をしたりバーテンダーをしたりと、1つの道を極められずに悩んでいた時期もありましたが、数年前の離婚を機に自分を見つめ直し、心機一転して翻訳を学び始めました。それからはゲームのローカライズ、映画の吹き替え・字幕翻訳など、さまざまな形で翻訳に携わり、昨年ついに、Job Shopとオーディションを通して書籍翻訳の仕事をいただきました。ゲーム、映像、書籍それぞれの魅力と難しさがあり、どれも大好きな仕事ですが、書籍翻訳は1つの作品と向き合う時間が一番長いせいか、代え難い特別感があります。
最近は続けざまに、美術に関する書籍の仕事をいただいています。大学で美学芸術学を専攻したり、ゲーム会社でローカライズしたグラフィックデザインの監修をしたりといった経験が、思わぬところで活きています。美学芸術学というのは「美しいとは何か」を問う小難しい哲学の一分野で、面白いけれど何の役にも立たない学問だと思っていたのですが、それが実際、素晴らしい仕事との縁を繋いでくれたのですから、人生に無駄な経験なんてないのかもしれませんね。今後もたくさんの縁を繋いでいけるよう、すべての経験と出会いに感謝していきたいです。
中川里沙
翻訳ストーリー
私が韓国文学に出会ったのは2019年。当時、日本で韓国エッセイやフェミニズム小説の翻訳出版が相次いでいて、SNSで見かけた作品をいくつか読んだことがきっかけでした。出産したばかりで子育ての真っ最中だった私は、韓国文学の「声なき声に耳を傾ける」力強さに圧倒され、救われるような気持ちになったのを覚えています。ちょうどその頃、翻訳スクールの授業がオンラインに移行されることを知り、すぐ受講を決めました。それまでも産業翻訳やウェブトゥーン翻訳に携わってきましたが、授業を受けてみていかに自分の取り組み方が甘かったかを実感させられました。その後もスクールで勉強を続けながらコンクールに挑戦したり、レジュメを提出したりするもなかなか結果が出ずに悩んでいたとき、偶然Job Shopの募集を見かけました。その日のうちに図書館へ向かい、すでに邦訳されている韓国エッセイなどを参考にしながら、翻訳のイメージを固めていきました。翻訳者に選ばれたという連絡をいただいたときは本当に嬉しかったです。
とはいえ、実際に本を一冊翻訳する作業は思ったよりも難しいものでした。本が刊行されるまでの間、共に悩み、寄り添っていただいたコーディネーターさんや編集者さんに心から感謝しています。Job Shopを通じて本を出したことが、講師の仕事や二冊目の訳書の仕事にもつながりました。
学生時代はずっと音楽の道を志していた私がなぜ翻訳の道に、と驚かれることがありますが、音楽と翻訳は共通する部分がたくさんあります。音楽には楽譜が、翻訳には原文があり、作品の世界を解釈し、自分の音や言葉で具現化します。一見華やかに見える世界ですが、自分と向き合ってコツコツと努力する根気強さが求められます。うまくできない自分に落ち込んでばかりの日々ですが、かつての私が本に救われたように、いつか私も誰かの心を軽くできるような、そんな翻訳ができるよう日々がんばっていきたいです。
新井朋子(中国語翻訳者)
翻訳ストーリー
私は大学で中国語を専攻し、卒業後はOLをしながら翻訳・通訳者の養成スクールに通いました。30代は子育てをしつつ、各分野の産業翻訳に苦労しながら取り組み、40代になってようやく、翻訳と通訳を楽しむ余裕が生まれ、出版翻訳に挑戦しようと思うに至りました。これが私の現在地です。
私にとって翻訳の醍醐味、それはこの広い社会がどのようにして成り立っているのかが、よく分かることです。文学に限らず、工学、心理学、スポーツ、社会学など、翻訳の対象は多岐にわたります。翻訳という仕事は短期間であってもさまざまな業界に深く入り込むことができるのが大変面白く、この仕事を続ける原動力となっています。
どんな分野にもそれぞれに違った歴史があり、発展を支えてきた人物やキーワード、問題や課題、将来の展望などがあります。私はそれらを「物語」と勝手に呼んでいるのですが、さまざまな分野の多彩な「物語」を理解することで、この世の中の成り立ちが、霧が晴れていくように徐々に見えてくるとき、自分がまた一歩大人になったように感じるのです(まあ、もうアラフィフなんですけどね)。
そしてアリの眼で1つの分野を深く見た後、鳥になって広い世界を見渡すと、各分野がリンクしている箇所に気づいたり、それぞれの関係性が浮かび上がってきたりします。
このような経験を繰り返し楽しめる翻訳という仕事は、きっと一生飽きることのない職業だと思います。 今回担当した翻訳書は、美術解剖学の知識を使ったイラスト技法の解説書です。
翻訳を進めるにあたっては、関連書籍を図書館から借り、ネットでイラストレーターの解説動画を見続け、業界独特の用語やフレーズを吸収しました。マンガ・アニメ業界は、若いエネルギーで満ち溢れたすばらしい空間でした。もう子供には「マンガばっかり読まないの!」とは言えません。
新しい世界への扉を開いて下さったトランネットの皆様に、改めて感謝申し上げます。
田中理恵
翻訳ストーリー
小学5年生の頃から毎日日記を書いていた。遠い昔には文筆家になれたらなんて淡い想いも抱いていたような気がする。そんな想いもいつしか「夢」として脳のどこかに葬り去られ、気づけば一般的に現実的と言われる選択肢の中から興味ある分野を選び、仕事のフィールドとしていた。
そんなある日、非営利団体のウェブサイトの翻訳プロジェクトのお手伝いしたことをきっかけに、翻訳の面白さを体感する。日本人にとって、英文だからという理由で苦手意識や面倒臭さを感じて読み飛ばされてしまう有用な情報は、世の中にはまだたくさんある。自分の訳した情報が日本語を母語とする誰かに届き、その人の心を動かすきっかけをつくれたら……と考えると、ワクワクした。当時は親としても自営業者としても駆け出しの頃だったので、仕事の幅を広げるきっかけを作ってみようかと、トランネットさんのサイトに登録させていただいた。
それからゆるりと副業として始めた翻訳業だが、縁あって昨年は年間3冊の書籍を翻訳する機会に恵まれた。それまで本業で受託していた仕事はB to B向けの仕事が多かったので、特に家族にとっては仕事の内容が説明しにくかった。しかし今回、訳者名に自分の名前が刻まれた「書籍」という非常にわかりやすい成果物ができたことで、初めて、何の仕事をしているのか理解してもらえたような気がする。
そして今年は、昨年携わらせていただいた出版翻訳のお仕事が楽しかったこともあり、翻訳業の比率を少し増やして出版翻訳以外の翻訳業にも幅を広げてみようかと、これまた試行錯誤の日々である。私にとって翻訳という仕事は、私生活の興味・関心を仕事にリンクできる点が魅力だ。生活の中で自分の学びとして触れるニュースや記事、日本語表現などが、全て血肉となって仕事に反映されている。日々の学びが誰かのお役にも立てるなんて、私にとってこの上ない喜びだ。
榎木鳰
翻訳ストーリー
私と英語との最初の出会いは4歳の時、今は故人となった父が名古屋の丸善で買ってきたアルファベットの洋書絵本でした。昭和40年代のことです。私は子ども時代を通じ、父が買ってくる本で育ち、読むことや書くことが好きになり、特にアーサー・ランサム全集は私の宝物、辻邦生は一生の憧れになりました。大学では服飾史・美学を専攻し、英語と仏語の文献を読み、卒論は源氏物語の色でした。
結婚、地方での主人の家族との同居、そして育児。ここから私の紆余曲折が始まりました。実学を修めなかったことを後悔し、家庭で学習塾を開きながら、長い間公認会計士を目指しました。今でいうリスキリングですが、当時は周囲に理解されるとは思えず、主人以外には内緒で夜明けの3時に起きて朝まで勉強しました。子ども達と過ごす夕方の時間と専門学校の学資が欲しくて、息子の幼稚園入園を機に、日中近所のソフトウェア会社で働くことにしました。プログラミングを覚え、これに夢中になり、その後、家でソフトウェアのローカライズやヘルプファイルの翻訳を手掛け、英語のスキルアップのため翻訳学校で学びました。そして、翻訳会社のトライアルを受けて、在宅の産業翻訳者として働くようになりました。
転機は50歳。主人の海外赴任に同行してドイツで約5年間暮らし、これが自分自身の再発見につながりました。語学学校に通い、久しぶりに大学の授業を聴講し、少々風通しが悪いのでは? と感じた日欧の情報交流のため、微力ながら働きたいと思うようになりました。帰国後Job Shopに応募し、運よく採用していただけました。
私は今年還暦になります。寄り道しつつ一巡し、迷いも悩みも、挑戦したから掻いた恥も、溶けて肥しになりました。子どもに還り、父が大切にし、私に託してくれたものを手に、今度は孫達を仲間にして、素晴らしい子どもの感性に日々触れつつ、面白いこと新しいことに全力で取り組んでいきたいと思っています。
吉森葉(第636回オーディション入賞者) 永盛鷹司(第651回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
幼少期から、ジャンルを問わず翻訳本を多く読んできた自分にとって、表紙に名前が載っている「翻訳家」という存在は憧れであり、尊敬の対象でした。とはいっても、翻訳学校に通うなどといった、翻訳家になるための具体的な努力をしていたわけではなく、いつしか自分とは無縁の存在だろうと思うようになっていました。
ところが、コロナ禍が大きな転機になりました。ちょうど海外に住んでいて、実質的なロックダウンでやることがなくなってしまったなか、久しぶりにオーディションに応募してみたら、一次選考に通過。それより先には進めませんでしたが、せっかく時間もあるので、もっとしっかり課題文と向き合って、何度かチャレンジしてみようと考えました。そうして次に応募したオーディションで、『気候変動に立ちむかう子どもたち』を担当させていただくことになりました。人生、何があるかわからないものだな、と思います。
本を一冊全部訳すというのは、オーディションの課題文とはまったく異なり、大変な面もありました。一貫した質が求められるし、何よりも締め切りが次々に来るので、一箇所に割ける時間は限られています。言語以外の調べ物も多くあります。コーディネーターの方が客観的に訳文をチェックし、鋭い指摘や、自分ひとりでは絶対に思い浮かばないような提案をくださったおかげで、完走することができました。
以降、何冊か翻訳をさせていただいていますが、常に勉強の毎日です。まだこの世界に足を踏み入れてから長くないですが、翻訳という仕事を通して学んだことはとても多く、これからの人生を豊かにしてくれるものだと思います。もともと、いろいろなことに興味を持って没頭してしまう性分なので、原書との出会いを通して世界を広げてくれる出版翻訳は自分に合っているのかもしれません。今後も自己研鑽しつつ、楽しみたいです。
西川由紀子(第643回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
「がっつり読みごたえあるノンフィクションを翻訳したい」が、10年前から翻訳を生業としてきた私の大きな夢だった。出版にかかわりたいと思い続ける中、ご縁に恵まれ、子ども向けの科学本を数冊翻訳する機会があった。頭をひねった訳文に美しい装丁が施され、書店で自分の名前を目にできる喜びは、本好きにはえもいわれぬ喜び。いつか大人向けの本でもこの気持ちを味わいたかった。
そしてトランネットのオーディション3回目の挑戦で、いち読者として大好きなジャンルの翻訳をまかせていただけることに。これまで社会問題を扱った雑誌記事を数多く訳してきた自負が少なからずあったが、夥しい原稿量と、歴史から政治、心理学、哲学の理解が求められる密度の濃い原書を前に、そんなものはほどなく打ち砕かれた。世界事情の無知さを痛感する日々で、真冬に始まった翻訳作業も、丸1冊訳し終えたときには夏が終わろうとしていた。
思えば、家族から「あんたの日本語はヘン」とつっこまれ続け、大学の英文学科も留年したほど落ちこぼれだった私が翻訳家になれた理由があるとしたら、それはひとえに根気力にあると思う。本となると納品も章単位で息つぎの間隔が長く、何カ月間も著者の世界観にひたり続けるわけで、何より心がけたのは長期戦に耐えうる気力と体力のメンテナンス。良質な食事と睡眠に加え、週2回のヨガ通いを課し、趣味の活動(クラシックギターの演奏)も続けた。翻訳以外のライフを止めなかったことが心身の健やかさにつながり、翻訳作業の集中力も上がったように思う。
原文に書かれていることの何倍もの情報にあたってこそ、ようやく的確な訳を生み出せる。深く要領よくリサーチする技も必要だし、常日頃からアンテナを広げたインプットに努めねばと痛感した。NHK『映像の世紀』は必見だ。10年後に読んでも色褪せない、サステナブルな書籍に今後もかかわっていきたい。
広林茂(第657回オーディション入賞者)
翻訳ストーリー
私は副業で翻訳を始め、今も副業として続けています。そもそも翻訳を勉強しようと思ったきっかけは、今から10年ほど前に、本業(IT系企業に勤務)で、あるITサービスの国際的な業界ガイドラインの和訳を担当したことでした。
実は私はそのプロジェクトに直接関わってはいなかったのですが、成り行きから、ボリュームのある英文資料を一人で翻訳したのです。多少は英語に自信はあったものの、自分が訳した資料を基にシステム開発が進んでいくのをはたから見ていると、「訳文は間違っていないか? 誤解されるような文章になっていないか?」と不安になりました。そこで自分の英語力を測るために、TOEICを受けたり、翻訳系の検定試験を受けたりしてみたのです。
翻訳系の検定試験では、思っていたよりずいぶん低い点数しか取れず、少し落ち込みました。それから、翻訳に関する書籍を読みあさり、通信講座にも申し込みました。そうこうするうちに、徐々に翻訳が面白くなり、試験の点数も上がり、少しずつ実務翻訳の仕事をもらえるようになっていきました。
そして、出版翻訳もやってみたいという想いでトランネットに登録し、オーディションへの挑戦を始めました。今回は幸運にも訳者に選んでいただき、大きな目標を一つクリアできました。ただ、いざ翻訳を始めると、法律用語からスラングまで、意味を理解するのに悪戦苦闘。さらに、訳文も日本語としてまだまだつたない部分が多く、トランネットのコーディネーターの方に丁寧にコメントをいただき、なんとか最後まで訳し終えることができました。本当に感謝しかありません。作業はしんどかったのですが、不思議と、楽しくもありました。
今後は、(私はもともと理系なので)科学読み物の翻訳に興味があり、また、ミステリー小説なども訳してみたいと、勝手な夢を広げています。これからも、新しい本との出会いを楽しみに、一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。
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