外山滋比古





 (最終回) 句読法



 電話で相手を呼び出して、自分の名を名乗るとき
「わたしは○○です」
と云う人が多いようである。いけないことはないが、年配の人には、どこか冷たく、切り口上のように感じられる。
 「こちらは○○です(でございます)が」なら、おだやかである。云い切るのは、ときに乱暴なひびきをもつのが日本語である。
 日常の会話でも、云い切らないことばが多い。センテンスをしゃべるのではなく、フレーズ(句)を並べる。二人で話しているときは双方が句のやりとりをして、掛け合になる。
 A「気持悪くって」
 B「だいたい、あの人はどこか変?」
 A「変人はかわいそうだけども…」
 センテンスをしゃべっていないということに気のついているのはむしろ例外である。文法的にセンテンスをしゃべるのは、むしろ日本人ばなれしていると云ってよい。
 文章でも、センテンスとフレーズの区別があいまいなことがある。
 「それをどう考えるのか。問題である」
 「それをどうするのか、問題である」
どちらも間違ってはいない。句読点の使い方はゆれている。
 もともと日本語には句読法というものはなかった。明治になって、外国の文章を見るとみな句読点がついている。それに倣えというので始めたのだから、なかなか板につかない。もっとも元祖のヨーロッパでも古くは句読法はなく、きちんとしたものになったのは二百五十年くらい前からである。
 「源氏物語」はむろんのこと、江戸時代の作でも、句読法はしっかりしていない。
 いまでも、招待状とか案内の正式なものには、点や丸をつけないのが正式であるが、すこしづつついたものもあらわれている。毛筆の手紙も句読点はつけないのが常識だが、もう筆で手紙を書く人はなくなった。
 明治年間に制定された法律、たとえば刑法などの条文には句読点は見られない。
「本法ハ何人ヲトハス日本国内ニ於テ非ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」(刑法第一条)
 法律は保守的であるから、現在もこういう条文が生きている。みだりに句読点をつけるのも、問ハスを問わず、に改めることも許されない。
 日本語にはじめて句読法を採用したのは、意外にも、明治二十年代の、文部省の国定教科書であった。法律より進歩的だったことになるが、一般への普及はずっとおくれた。もっとも新しいことが好きそうな新聞が、こと句読点についてはひどくおくれた。すべての全国紙が句読法に従うようになったのは、戦後の昭和二十六、七年であった。それまではずっと、読点の のみですませていたのである。どうして句点のをつかわなかったのかわからないが、ひょっとすると丸だと中がつぶれて黒丸になるのをおそれたのかもしれない。
 戦後の学校はアメリカの影響があったのかどうかわからないが、句読法を教えるのに熱心であった。戦前とは違った句読点の使い方をする世代が育った。犯罪捜査でも書いたものの句読法によって犯人が戦後世代かどうかを判定するらしい。漢字の使用が制限されるようになったのも句読法が重視される背景であろう。
 その行き過ぎの例も若い人たちの間にあらわれている。手紙の宛名を
  ○○△△様。
とするのがある。こんな例は欧米にもないから日本の独創?である。といって笑っていられるが、大新聞が、とんでもないことをする。大きな活字のおどる大広告のキャッチフレーズ
 「 事業の拡大に! 実績の××です。」
と最後に句点をつける。こういう場合、あとに空白があるのだから、句点は不要、あってはいけない。戦後育ちの広告マンが、教わったことに忠実のつもりで、丸をつけた。学校の教育もそこまでは手が届きかねたのか。さすがに出版社の出す広告にはこの目ざわりな丸のついているものはない。
 だいたい、どうして句読点をつけるのか、はっきりしていないから、誤用がおこる。もともとは、読む人の理解を助けるのが目的であった。誤読をさけるための老婆心でつけたのが始まりである。したがって、目上の人に差し出す手紙などに句読点をつけるのは、相手の教養を疑うことになりかねなくて、失礼になるのである。
 今評判の歌集、岡野弘彦氏『バグダッド燃ゆ』を見ると、ところどころ、歌中に句読点がついているから目を見張る。これまで短詩系文学は和歌、短歌、俳句、川柳を問わず、テンとマルとは無関係であった。おどろいて、作者ご本人に理由をきいたところ、このごろの若い人は相当の教養があるはずなのに、区切りを間違える。そういうことがないように、句読点をつけた、ということであった。それならまさに句読法本来の使用である。おどろいたりする方が間違っている。
 現代、句読法にも結構な動きがある。日本語の変質と無関係ではないように思われる。

前回予告どおり、半年間、12回にわたってご愛読いただきました本コラムも、今回をもって終了の運びとなりました。
日本語の特性、魅力を縦横に説き来り、説き去る名文に、またいつの日か再会できるようにと祈りつつ、ひとまず外山先生にお別れすることといたします。

これまで、国内外の読者の皆さまから沢山のお便りをいただきましたことに、スタッフ一同、この場を借りてお礼申し上げます。
なお、今後も充実した内容のコラムを掲載してゆく予定でおりますのでご期待ください。



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