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![]() 外山滋比古 |
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(10) 「文法がない」? 日本語論として谷崎潤一郎の『文章読本』はきわめておもしろい。とくに外国語との対比をふまえて日本語の特質を明らかにしている点では、あとにもさきにも、この名著に及ぶものはない。 その『文章読本』の中に 「日本語には、西洋語にあるようなむづかしい文法といふものはありません。…文法的に誤りのない文章を書いてゐる人は、一人もないでせう」 という断定があり、その先でさらに |
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「日本語には明確な文法がありませんから、従ってそれを習得するのが甚だ困難な訳であります」 ととどめを刺している。ずいぶんはっきり云い切ったもので、さすがに後々、これに批判を加える人があらわれた。ひとつには、著者の云い方がいささか不用意であったから誤解されたのである。日本語には英語と同じような文法はない、とすればよかったのである。短兵急に、日本語には文法がないととられるように書いたのは不用意である。日本語の文法は英語などの文法と違うという至極、当り前のことを、文明開化の明治以来、はっきり云った人はなかった。西欧文化に対する潜在的劣等感はいまなお多くの日本人を毒しているけれども、谷崎はいち早く吹っ切れていた。『文章読本』がユーニークであるのもそのためである。 谷崎が、日本語にいわゆる文法がない、と云った根拠は二つある。 (一)「日本語のセンテンスは必ずしも主格のあることを必要としない」 (二)「われわれの国の言葉にもテンスの規則などがないことはありませんけれども、誰も正確には使ってゐません」 主格、主語を欠いた日本文については、すでに「『私』の問題」(「日本語の個性」2)と「象は鼻が長い」(同5)において、かなり詳しくのべたので、ここでは(二)のテンスについて考えることにする。 テンスは、「時制」をあらわす英語文法の用語であって、日本語文法はテンスについてはっきりしない。 文法上の時、時制は、現在(形)、過去(形)、未来(形)の三つである。『文章読本』によれば、「『した』と云へば過去、『する』と云へば、現在、『しよう』と云へば未来であります」となるのだが、実際はそうなっていないのである。日本語では過去のことを平気で現在形であらわす。たとえば内田百閧ヘ 「食卓に着く前に記念撮影をすると云うので、ボイに持って来させた涼み台の様な長い腰掛けに列んで腰を掛けた。 総勢は六七人しかゐない。だから一列に列んだだけで起ってゐる者はゐない。真中に学長の松室致氏が掛けてゐる。…松室さんの隣りは豫科長の野上さんで、腰掛けの一番右の端に私がゐた」(「ひよどり会」 冒頭)という文章を書いている。話は過去のことだから、全体に動詞は過去形であるべきだと思うのは初心者である。ここでは、はじめと終りに、「掛けた」「ゐた」と過去形が出るだけで、その間にある文末はすべて現在形になっている。 内田百閧ヘおそらく明治以降、最大の文章家である。行文まことに行き届いており、いささかの弛みも見せない。その百閧ェ過去形でなく現在形にしているのである。過去形にしたら、すくなくとも文章のニュアンスは大きく損なわれるに違いない。悪文になる。 日本語の文法でテンスが確立しにくいのは、時をあらわす、動詞、助動詞が、きまって文末に来るという日本語特有の構造と関係する。英語では、動詞は主語のすぐあとに来るからさほど目立たない。日本語は文末だから、同じ過去の動詞がつづくと、耳ざわり、ないしは単調になる。うっかりしなくても、た、た、たと過去形の行列のようになる。文末、語尾に変化をつけなくてはいけない。文章を書くほどの人はそう考える。ヴァリエイションをつける必要がある。 全体が過去の文脈であれば、その中の現在形は、過去形のヴァリエイション、変化、つまり過去形と同等なものと見なされる。日本語の妙であるが、それを教えてくれるところがないかもしれない。 日本語に比べるとテンスのやかましい英語でも、過去形にすべきところで、現在形を使うことがある。物語の高揚したところになると、それまでの過去形動詞をすてて現在形を使用する。理に合わないから、英文法ではこれに「歴史的現在」というわけのわからぬ名前をつけた。 日本語において、過去の文脈中で、現在形が使われるのは、主として、文体、表現効果によるもので、「歴史的現在」の向うを張れば「修辞的現在」と呼ぶことができる。 こう考えてくると「日本語には文法がありません」ではなく、別の文法があるとした方が穏当であるように思われる。 古池や蛙飛び込む水の音 はテンスを超越している。 翻訳は原文にこめられた著者の語感と、訳者の育んだ日本語語感との「せめぎあい」であるとも言えましょう。本、外山先生のコラムを優れた日本語語感を掴む一助として活用し、翻訳のエッセンスを見出してください。 次回12月15日、日本語の個性(11)をご期待ください。 |
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